智積院
May 22~25 '05
 真言宗智山派の総本山である智積院は天正13年 (1585) 豊臣秀吉によって焼払われた根来山の塔頭を前身とし、徳川時代になって五百仏頂山根来寺智積院と改名された。弘法大師を宗祖、興教大師を真言宗中興の祖と仰ぎ、真言宗智山派3000余寺の総菩提所・総祈願所として多くの参拝者を迎えています。山内には20余りの堂塔伽藍が峰より連なる緑深い木々に抱かれ特に、名勝庭園は石組と刈込で中国の盧山の形容を模した名園として名高い。さらに、智積院には貴重な文化財も多く、特に桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画 (「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」など)も保存され、わが国一級の文化遺産として国宝にも指定されています。 なお、私の実家でお世話いただくお寺がこの真言宗・智山派であり是非一度、総本山を拝観したいと思っていたところでした。
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             方広寺    豊国神社    耳塚

  山門                  境内案内図
 

金堂と鐘楼

      名勝庭園への門         わが国最高の名作、国宝障壁画を保存
 

講堂・・・灌頂道場や各種研修に使用          高浜虚子の歌碑  
      

大書院東側にある桃山時代に造られた名勝庭園、中国の廬山を形どって作られた利休好みの庭として有名

池と石組みの配置が絶妙
 

大書院           大書院内の襖絵「桜図」「楓図   
  
  

大書院内の襖絵の拡大写真

金堂・・・総本山智積院の中心的建物

金堂正面・・・唐宗祖弘法大師の生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設

金堂内には本尊大日如来の尊像を安置           明王殿                        
 
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方広寺
 方広寺は太閤・豊臣秀吉が造立した伝教大師作・豊太閤護持の大黒尊天を祀ったお寺です。ここには有名な、大阪冬の陣の口実となった「国家安康君臣豊楽」が刻まれた高さ4.2mの大鐘があり、大正時代に再建された鐘楼の中にひっそりと吊るされていました。この「国家安康君臣豊楽」とは「家康の字の間に安を入れ、身体を二つに分けて呪い豊臣家を栄えさす」つまり、家康が死ぬことで国家や豊臣家が栄えると故意に曲解して読み取られ、豊臣家滅亡のきっかけとなりました。

方広寺社殿・・・大黒天を祀る

日本三大名鐘と言われる「国家安康」の大梵鐘・・・有名な「国家安泰・君臣豊楽」が刻まれている
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豊国神社
 豊国神社は豊臣秀吉公を祀る神社で、1599年に秀吉の遺骸が眠る阿弥陀ヶ峰の中腹に建てられた「豊国社」が起源です。大阪夏の陣により豊臣家が滅亡後、徳川家康によって取り壊されましたが1880年(明治13年)になって明治天皇のご沙汰により方広寺大仏殿跡に再建されました。ここにある国宝・唐門は南禅寺金地院から移築されたもので、もとは伏見城の遺構と伝えられ桃山文化を代表する見事な装飾が見られます。また、境内には秀吉の遺品を展示する宝物館もあります。

豊国神社正面の大鳥居

唐門(国宝)・・・伏見城の遺構と伝えられる

見事な装飾の唐門より本殿を臨む

          宝物館             鉄燈籠・・・辻与二郎実久作
 

 獏御枕・・・伝豊公御所用         豊公嫁を娶る図・・・鉄斎筆
 

     豊国祭礼図屏風          豊国祭礼図屏風・・・狩野内膳筆
 

豊国秀吉公の御画像                荷瓢              
  

豊国神社周壁の巨大な石垣・・・旧方広寺時代のもの

耳塚
 文禄と慶長の2回朝鮮半島に出兵した豊臣秀吉が慶長の役のとき、戦況を確認するため敵兵の鼻を削いで塩漬けにして送らせたという。戦死者だけでなく、生存者の鼻まで削いだというその鼻を供養したところ。

豊国神社の手前にある小高い塚
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